Home > スポンサー広告 > 空間知覚が拓く可能性(CHIKAKU展)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Comments: -

Comment Form
Only inform the site author.

Trackback+Pingback: -

TrackBack URL for this entry
http://sixsense.blog55.fc2.com/tb.php/38-bb00923f
Listed below are links to weblogs that reference
スポンサーサイト from  空間快楽主義 

Home > スポンサー広告 > 空間知覚が拓く可能性(CHIKAKU展)

Home > イベント > 空間知覚が拓く可能性(CHIKAKU展)

空間知覚が拓く可能性(CHIKAKU展)

  • Posted by: 藤田祐一
  • 2006-07-03 Mon 20:49:16
  • イベント
川崎市 岡本太郎美術館
CHIKAKU展(4/8~6/25)

20060704214224.gif


空間知覚が拓く可能性

僕はこのブログ制作において一つのルールを決めています。
それは、自分が直接体験して、自分で撮影した写真を使う
ということです。

ですが、今回はこのルールを破ることにしました。

上の写真は、「CHIKAKU/四次元との対話-岡本太郎から
はじまる日本の現代美術」(以下CHIKAKU展)の図録パンフ
からスキャンしたものです(会場内は撮影禁止でしたので)

「CHIKAKU展」とは、近代化以降の日本のアートを
特殊な日本人の知覚構造に焦点を当てて欧州に紹介すべく
企画された巡回展で、キュレーターの伊藤俊治氏は
岡本太郎が撮影した縄文土器や全国の祭祀・風習の
写真をその出発点に据えました。

そしてその中の1枚が上の写真というわけです。

なぜルールを破ったかというと、この写真には
僕が空間に向かう原点というか、
空間に心を奪われる本質的魅力(魔力)や
考えるべき課題が露わになっていて、
その一端でもみなさんに伝えることができればと思うからです。
(まあこのブログの半分ぐらいはそれが動機となのですけど)

撮影場所は、沖縄・久高島の大御獄(ウタキ)。
御獄とは「のろ」と呼ばれる女性のシャーマンが
宗教的な儀式を繰り返し行う場所であり、
神さまが降りてくる(神を降ろす)聖地です。

僕も一度訪れたことがありますが、
男子禁制で立ち入ることができませんでした。

でも、その入り口に佇んでいるだけで、
もの凄い風圧のようなプレッシャーが奥(御獄)の方から
放たれてきたことが今でもありありと思い出されます。

岡本太郎はこの御獄と出会い感動します。

何の実体もない粗末な四角い切石が置かれただけの
ただの空き地のような空間(御獄)は、儀礼が始まると
超自然的な力が降りてきて、強烈なパワーで満ち満ちた
空間に変性していきます。

僕は久高島で実際にそういった光景を見たわけではありませんが、
おそらくバリ島で体験した、宗教儀礼のクライマックスに起こる
空間と人の変性(トランス)と共通した現象が御獄でも起こる
のであろうと想像されます。

岡本太郎はこのような向こう側の深淵世界とこちらの世界を
結び付けていく力、伊藤氏の表現を借りれば、
見えるものと見えないものを繋げようとする意思や
超自然的な世界との激しい現実的な交渉といった能力の再生に
芸術が向かっていくべき方向や可能性を感じ取ったようです。

これはもう僕を居ても立ってもいられなくさせるテーマです。

特別な儀礼や聖地ということでなくても、ある建築や空間を
体験したときに沸きあがる感情や感動は、おそらく何万年と
続いた御獄のような儀礼体験の記憶と深く結びついていて、
僕たち人間は今でも心の奥底で同じような体験を求め続けて
いると思うのです。

そして僕の課題は、岡本太郎がそれを神秘化せずに芸術という
行為において普遍化しようとしたように、神秘化した表現や
概念を使わずに新しい説明モデルを考えることなのです。
(なんという身の程知らずな目標でしょう・・・)

「神が降りる」や「超自然的な力が満ちる」等々の表現は
人類の歴史的な経験の蓄積と個々の体験者の実感の両側から
支えられていてひとつの真理の側面を語っていると思いますが、
その先を考えることができません。

「神」や「超自然的な力」とはただ人が感じることができるだけで
今のところ実証も検証もしようがないからです。
(だから存在しない、価値がないというのが科学的見方の偏狭さ
であり、人間にとって重要なことを見落としていく欠落でした)

そしてその抽象的な概念を「降りる」や「満ちる」といった表現で
実体的に表さなければならないところがひとつの限界である
ように思えるのです。

かつて僕はこのブログの空間考で「空間とは実体がないのに
存在する不思議でおもしろいものだ」ということを書きました。

それは「空間」とは人間が認知・認識したときに始めて存在し、
その認知は人と環境の相互作用から生まれることを意味します。

ということは、空間を人の行為や精神と環境の関係性という
視点から解釈し直すことができるのではないか?
という不遜な野望を抱いているのです。

何か実体的なものが空間を出入りするのではなく、
人と環境の関係性が変化することの反映として
空間が変性していくという見方はできないか?
(実はこれは風水の見方と対立してしまいます)

そしてトランス(陶酔)に見られるような人間の意識の変性と
空間の変性(認知の変化)には深い繋がりがあるのではないか?

このことを説得的、論理的に説明することはいまはまだ出来ません。
(というかどうしたらよいか見当もつかないのですが…)

ただ、いままでいろいろな聖地や空間を体験してきて
「意識が空間化する=空間が意識化する」というような
不思議な感触だけが自分の中にあります。

読んでいるみなさんには「なんのこっちゃ?」という感じでしょうね、
うまく伝えることができるようになるまでライフワークのつもりで
取り組みたいと思います(笑)

※余談ですが伊藤俊治氏は僕をバリ島の儀礼世界に
 引きずりこんだ人で、まあ精神的師匠のような人なの
 ですが、いつかは乗り越えたいと思いながら、永遠に
 届かない高い山のような人です・・・

20060703204334.jpg
屋外作品展示
20060703204307.jpg
美術館入口

ブログランキングに、ご一票をお願いしますm(_ _)m
スポンサーサイト

Comments: 0

Comment Form
Only inform the site author.

Trackback+Pingback: 0

TrackBack URL for this entry
http://sixsense.blog55.fc2.com/tb.php/38-bb00923f
Listed below are links to weblogs that reference
空間知覚が拓く可能性(CHIKAKU展) from  空間快楽主義 

Home > イベント > 空間知覚が拓く可能性(CHIKAKU展)

タグクラウド
ブログ内検索
RSSフィード
リンク

Return to page top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。